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西洋占星術(12星座占い・星占い)

占星術の歴史

 占星術は非常に長い歴史があります。その起源は、紀元前の遥か昔にまで遡ることができます。ここでは、その膨大な歴史を詳細に跡づけることは不可能なので、あくまでそのおおまかなスケッチをしておきます。
 以下、占星術の歴史を概観するにあたって、さしあたってここでは大きな6つの時代区分――前300年頃までのプロト占星術期、200年頃までの形成期、 300年頃から徐々にはじまる衰退期、1100年代から1500年代までの復興期、1600年代から1800年代半ば頃までの第2衰退期、そしてそれ以降 1900年以降の第2復興期――に基づいて解説していきたいと思います。

■ プロト占星術期

 今日の占星術のもとになった、いわば「プロト占星術」は、チグリス川とユーフラテス川の間のメソポタミア南部にその起源があると考えられています。そのはじまりのはっきりとした時期はわかりませんが、紀元前2000年より前には、すでに星を神々の意志を知るためのオーメン(予兆)としてみなす、ごく初歩的な形の占いが行われていたようです。
 シュメールの後、前1900年頃からはじまる古代バビロニアでも、オーメンに基づく占いが盛んでした。当時の記録からは、鳥や動物のふるまい、川や大地などの自然のなか、天で起こるさまざまな現象(虹、雲、食、日出と日没の状態など)、といったあらゆるものがオーメンとみなされていたことがわかります。なかでも、儀式のなかで犠牲にされた動物の肝臓の状態は、最も重要なオーメンとみなされていました。
 オーメンの解釈は、過去の出来事の記録に基づいていたり(たとえば、過去に日食の後に洪水が起こったことがあったので、日食が洪水のオーメンだと考えられたり)、ある種の類似に基づく観念の連合(たとえば、月の暈は王冠に似ていることから、月の暈が長い治世を表すオーメンとみなされたり)によるものでした。また、それらは粘土板へと記録されることで、世代から世代へと伝えられる知識として保存されていきました。後の占星術のプロト・タイプとなる星を基にした占いは、さまざまな自然現象によるオーメンの一部であり、その記録の蓄積のなかから生まれていったと考えられます。
 オーメンの記録の集大成として知られているものとして、ニネヴァのアッシュールバニパル王の古文書館で見つかった『エヌマ・アヌ・エンリル』があります。紀元前7世紀に刻まれたこの最も初期のオーメンのコレクションは、7000以上のオーメンと天の観察が記された70の粘土板から構成されたものです。
 こうした天のオーメンと、現代のホロスコープを作成して星の配置をもとに占う占星術の間には、いまだ大きな隔たりがあることは確かです。けれども、『エヌマ・アヌ・エンリル』のようなオーメンに関する文献と、暦を作成するための当時の天文学的データーとが結びついて、後の占星術の母胎となるものが誕生したと考えられます。
 実際に、バビロニアの天文学では、今日のいわゆる「12星座」のもとになるものの基礎が作られました。前10数世紀頃の天文知識をまとめたものとして知られている記録MUL.APINでは、今日の黄道に当たるものが、並行して走る三つの帯(赤道帯より北の周極星、赤道帯、赤道帯より南)によって表わされ、それぞれエンリル、アヌ、エアといった神々の通り道だと考えられていました。また、それらには18のサインが位置づけられていました。18のサインが、わたしたちの知っている黄道を等分した12サインとなったのは、前5世紀末頃からだと考えられています。ちなみに、その最も早い記録として知られているのは、前419年の粘土板です。
 また同じ頃、黄道を分割したサインによって惑星を位置づけ、それが天のオーメンとしての占いへ取り入れられるようになったようです。その最も初期の記録としては、現在オックスフォードのボトレアンライブラリー所蔵のSuma-usurの息子の誕生の日付である前410年1月13日の前後の惑星の位置をサインに基づいて記したものが存在します。これは現存する最古の「ホロスコープ」だともしばしば言われていますが、実際には、現代の占星術師が作成するような円のなかに惑星を配置したチャートではありません。単に惑星のポジションを列挙しているだけのものです。
 したがって、これを最古のホロスコープとしてみなすかどうかは、「ホロスコープ」という語によって何を意味するかということで意見の分かれるところとなるでしょう。ちなみに、「ホロスコープ(horoscope)」と言う語は、後のギリシャ語で「時」を意味するhoraと「観測者」を意味するskopos からなる「ホロスコポスhoroskopos」に由来するものです。また、実際上それは、今日のような星の配置図を指す語としてではなく、特定の瞬間に東の地平線に上昇してくるサインを意味するものとして、もともとは使われていました。
 さらに前3世紀頃からは、惑星の出現の状況によるオーメンを記した、いわばプロト占星術の理論的なテキストとも言うべきものが見つかっています。そこでは、木星が現れるとき「金持ちになり、長生き」し、土星が現れるとき「病気となり、不自由」となるといったような現代の占星術の惑星の意味とほぼ重なるような解釈も見られます(ただし、水星は「勇敢になる」、月は「利口になる」など現代の占星術による惑星の解釈と異なるものも見られます)。
 このようなバビロニアにおける天のオーメンから発達していったプロト占星術は、その後、ギリシャへ伝わっていくことで、本格的な占星術のシステムの確立へと向けて新たな展開を見せることになります。

■形成期

 ペルシャ戦争後の前5世紀には、バビロニアとギリシャの間の接触は盛んになりました。しかしながら、バビロニアのプロト占星術をベースとして、より本格的なギリシャの占星術がはじまったのは、おそらく早くても前3世紀以降ではないかと考えられています。
 前330年頃、アレキサンダー大王がギリシャを統一し、エジプト、メソポタミア、ペルシャを含む近隣の地域を征服しました。それによってシンクレティズムが起こり、いわゆるヘレニズム文化の時代がはじまりました。
 その中心地となったのは、ギリシャの植民地であるエジプトのアレクサンドリアです。そしてこのアレクサンドリアこそ、プロト占星術から、現代の占星術のルーツとも言うべきヘレニズム占星術を生み出す場所となりました。
 アレクサンドリアにおける占星術は、すでに述べたバビロニアに由来する黄道と惑星に基づくオーメンに対して、当時のギリシャの思想――エンペドクレスのエレメンツ、ピュタゴラス主義者の数のシンボリズム、プラトンによる惑星の神性、アリストテレスの地球中心のコスモロジー、ストア派の宿命論、及び共感の原理、さらにはエジプトとギリシャ思想の融合とも言うべきヘルメス、あるいはグノーシス派の魔術的=宗教的コスモロジーなどのさまざまな影響が加わり発達していったのではないかと考えられます。そして少なくとも前1世紀頃までには、惑星、サイン、ハウスといった現代の占星術の基本的な要素をもとにしたホロスコープ占星術が確立されています。
 とはいえ、この時代のホロスコープの解釈のメソッドは、現代の標準的なものとまったく同じではありません。そもそも正しいとされる標準的なメソッド自体が存在せず、占星術師はそれぞれ自分なりのやり方を自由に発展させるといった状況であり、いまだ占星術理論は流動状態にありました。

前 30年以後、アレクサンドリアはローマの支配下となります。キケロ(前106-前43)をはじめとする懐疑的な知識人たちからの批判はあったものの、やがて占星術はローマ人の間でも次第に受け入れられていきます。特に、帝政を敷いたアウグゥストゥス帝(在位前27 – 14)の頃になると、占星術が宮廷のなかでも行われるようになり、さまざまな政治的な意図のもとで利用されるようになっていきます。アウグゥストゥスの後継者であるティベリウス(在位14-37)は、宮廷占星術師を抱えた最初の皇帝としても知られています。
 しかしながら、占星術師は宮廷で重用される反面、その予言――皇帝の死、あるいはある人物のホロスコープから次期皇帝になることを告げたりなど――が社会不安を引き起こしたり、民衆をいたずらに扇動するおそれのため、妖術師や他の占い師などとともに、いく度となく追放令が出されることもありました。
 はっきりとした年は定かではありませんが、おそらく15年頃のローマで、完全な形で現存する最も初期の占星術の理論書的なものが書かれました。ローマの詩人マニリウス(Marcus Manilius, 1世紀)の『アストロノミカ(Astronomica)』という教訓詩です。
 マニリウス以降、占星術に関する多数の著作が現れることになりますが、なかでもアレクサンドリアの地理学者・天文学者であるクラウディウス・プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus, 83頃 ? 168頃)による『テトラビブロス(Tetrabiblos)』(150頃)は、後世にまで非常に長く影響を与えることになります。

■衰退期

 しかしながら、ローマ帝国末期へ向かうなか、やがて占星術は長い衰退期へと向かいはじめることになります。
 コンスタンティヌス帝(在位 306 – 337)が、312年にキリスト教に改宗してから、ローマ帝国はキリスト教化していきます。そしてその後、キリスト教が公認の宗教となり、その権力が確立されると、今度は教会による反占星術的な態度が強まっていきます。
 テルトゥリアヌス(160-220)やオリゲネス(182-251)といった初期のキリスト教父たち、そしてなんといっても聖アウグスティヌス(354-530)による占星術への攻撃は、その後の教会のアンチ占星術の典型的な態度を形作っていきます。
 教会が占星術を攻撃した理由としては、人間の自由意志を占星術の宿命論的な考え方が脅かすという思想上の問題もあります。けれども、それだけではなく別の大きな要因として、当時の教会にとって大きな脅威となっていた異教、あるいは異端的なセクトと占星術が結びつけて考えられたということがあります。実際、当時の占星術に対する厳しい非難は、しばしばグノーシス主義やマニ教などへの攻撃とセットになっていました。そしてその結果、占星術師は厳しい非難を浴びせられるようになっていったのです。
 こうした教会による攻撃によって、これまで非常に盛んだった占星術の隆盛にも、やや陰りが現れてくることになります。さらには西ローマ帝国崩壊以後の学問の大きな衰退によって、ローマにおける占星術は他のヘレニズム科学とともにほぼ完全なる消滅へと向かっていきます。実際、特に西ローマ帝国においては、5 世紀以降、占星術に関しての重要な動きはほとんど見られなくなっていきます。

■復興期

 ヨーロッパにおける占星術が、再びその確かな姿を表しはじめるのは、今日の歴史家たちによって「12世紀ルネサンス」と呼ばれる時期です。それまでの間、かつてのバビロニア、そしてヘレニズムの占星術の知識は、サンスクリット語やアラビア語に翻訳され、インドやアラブのほうで引き継がれていました。
 11世紀後半から13世紀半ばにかけて、ヨーロッパの学者の手によってアラビア語、及びギリシャ語の占星術の多くの著作が、天文学、医学、数学、哲学などの他の諸学問とともにラテン語へと翻訳されます。プトレマイオスの『テトラビブロス』も、ティヴォリ出身のプラトーという学者によって1138年に翻訳。さらにこの時期、アラブ最大の占星術師アブー・マアシャルの著書もラテン語訳されています。また、12世紀にはイタリアのボローニャやフランスのパリで、現在の大学の礎が誕生しますが、やがてそこでも占星術は教育課目としても組み込まれていきます。こうして占星術はヨーロッパで再び学問的地位を次第に取り戻していくことになります。

 長らく失われていた古代ギリシャの学問を復興しようとする知的潮流が続く16世紀までは、占星術の威信は揺らぐことなく大きく繁栄します。もちろんその時代、キリスト教からの占星術に対する反対がなかったわけではありません。けれども、それは占星術がその教義を脅かすと考えられる場合であって、実際のところは教会の態度は、いささかアンビバレンツなものでした。
 たとえば、偉大なスコラ学者トマス・アクィナス(1225-1274頃)は、キリスト教の神学と和解させることが可能な範囲の占星術を認めていました。アクィナスは、占星術を天の星が地上の事物へ物理的な影響を与えるという意味での「自然占星術」と、個人の運勢を判断する意味での「判断占星術」とに分け、前者を肯定し後者を否定するという考えを見せました。  こういった考えはアクィナスに限ったことではありません。占星術の理論や細かなルールなどの矛盾を指摘し、それを激しく攻撃する学者でさえ、「星の地上への影響」という「自然占星術」的な考えを完全に否定することはありませんでした。実際に15世紀後半にジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラ(1463‐94)によって書かれた最も重大な占星術批判の書『予言占星術論駁(Disputationes adversus astrologiam divinatricem)』ですら、「自然占星術」的なものにはほとんど触れることはなく、その徹底的な攻撃の矛先は、あらゆる種類の「判断占星術」的なものへと向けられました。


■第2衰退期

 17世紀に入ると今日の科学史家が「科学革命」と呼ぶ、科学的世界観の大きな変化が訪れます。それは占星術にとって、おそらく今後も二度と後戻りすることのできない重大な転換点となります。
 実のところ、これまで占星術がさまざまな観点から批判にさらされたとしても、その地位を維持し続けることができた最大の要因は、その理論体系がその時代の知識人たちの信じる宇宙観と大きく矛盾することなく、そのなかに収まることができたからです。
 しかしながら、16世紀から18世紀に向かって、コペルニクス(1473-1543)を代表とする科学者たちによる諸発見、及び新たな宇宙観は、占星術を支えていた宇宙像(すなわち、地球を中心として宇宙を考えるアリストテレス的な宇宙モデル)を、もはや認めることのできない古い誤ったものとして葬り去ることになっていきます。
 そもそも占星術の理論体系はいかなるものであれ、アリストテレス的な宇宙モデルを前提としたものでした。したがって占星術も、もはやその時代には通用しない過去の遺物として知識人たちの間では、省みられることがなくなっていかざるをえません。
 特に「判断占星術」は、もはや学問の対象ではなくなりました。あえて、かろうじて生き延びたと言えるものがあるとすれば、「自然占星術」的な側面(潮の満ち引きへの月の影響など)が、新たな物理学の知の枠組みのなかへと形を変えながら吸収されていったということになるでしょう。

 しかしながら、特にイギリスに関して言えば、いまだ17世紀には、占星術の第2の衰退期における最後の輝きを残す何人かの占星術師たちの活躍も目立ちます。特にイギリス革命期において、ウィリアム・リリー(William Lilly, 1602-81)をはじめ、何人かの占星術師たちは、政治的色彩の濃いパンフレットのなかでの占星術的予言によって、当時の人々や社会への影響力を発揮し続けました。また、1647年にリリーの書いた『クリスチャン・アストロロジー(Christian Astrology)』は、今もなお重要な占星術の古典として、熱心な占星術師たちの間で読み継がれています。

 いわゆる「啓蒙主義」の時代、新たな知のパラダイムへと組み込まれることがなかったにも関わらず、完全に占星術が消滅しなかったという点には注目すべきでしょう。17世紀、そして18世紀に入ってもなお、一般大衆向けのアルマナック、すなわち占星術的予言の書かれた暦は、多くの人々の間で読まれ続けます。したがって、学問としての占星術は死に絶えたとしても、その主要な生息圏を一般大衆へと移すことで、生き伸びていったとも言えるでしょう。


■第2復興期
 19世紀に入っても、占星術の活躍の主要な舞台は、やはり大衆向けのアルマナックでしたが、その一方で確かな占星術のリバイバルの兆しも少しずつ見えてきます。
 イギリスでは1816年、一般向けに占星術のチャートの作り方と解釈などを紹介したジェイムス・ウィルソン(James Wilson)の『占星術の完全辞典(Complete Dictionary of Astrology)』が出版。さらに1828年にロバート・C・スミス(Robert C. Smith, 1795-1832)は、ラファエル(Raphael)というペンネームで『占星術のマニュアル(Manual of Astrology)』を、そして1830年頃『エフェメリス(ephemeris)』を出版。また、1835年にラファエルの友人でもあったリチャード・ジェームス・モリソン(Richard James Morrison, 1795-1874)は、ザドキエル(Zadkiel)のペンネームで、前述のウィリアム・リリーの『クリスチャン・アストロロジー』を要約した『ウィリアム・リリーによる占星術への招待(An Introduction to Astrology by William Lilly)』を出版します。 

 しかしながら、占星術が本当の意味で新たな活力を取り戻すのは、19世紀末になり、近代オカルティズムの潮流のなかを泳ぎはじめてからのことです。特に「神智学」の形而上的な宇宙観という新たな後ろ盾を得ることで、占星術はこれまでとは異なる「秘教的」な衣装を身につけ、やがて新たな次元を切り開いていくことになります。
 なかでも、この時期を代表する神智学的占星術師としては、セファリエル(Sephariel)のペンネームを使ったウォルター・ゴーン・オールド(Walter Gorn Old, 1864‐1929)やアラン・レオ(Alan Leo)のペンネームを使ったウィリアム・フレデリック・アレン(William Frederick Allen, 1860-1917)がいます。
 特にアラン・レオは、自ら最初の大きなオカルト本の出版社となる「モダン・アストロロジー・パブリッシング(Modern Astrology Publisihg Co.)」を設立し、一般大衆へ向けて占星術を普及させることに多大な貢献をします。また彼は、伝統的に未来を予知するためのものだった占星術を、神智学をベースにしながら心理学的なものへと変えていきました。それは今日にも続く「占星術の心理学化」とも言うべき最初の一歩であり、後の占星術師たちに大きな影響を与えることにもなりました。

 アメリカでも世紀の変わり目あたりから、何人もの目立った占星術師が現れはじめます。特に20世紀に入ってからは、エヴァジェリン・アダムス(Evangeline Adams,1868?-1932)、C・C・ザイン(C. C. Zain)、マックス・へインデル(Max Heindel)、レェウェリン・ジョージ(Llewellyn George)といった人々が活躍します。
 また1920年代頃から、いくつかの大手の出版社も、一般大衆向けの占星術に関する書籍や雑誌を積極的に出版しはじめます。さらに1930年代にもなると、多くの新聞に占星術による運勢判断がどんどん進出していきます。実際、この時代の占星術師の成功の多くは、こういった公共の著作においてでした。

 その一方で、この時代のオカルティズムやメタフィジカルな思想を吸収することで、より深みのある占星術へと向かう、さらなる刷新も起こっています。
 神智学者アリス・ベイリー(Alice Bailey, 1880-1949)の「ヒューマニスティック占星術(Humanistic Astrology)」。そしてベイリーの弟子のディーン・ルディア(Dane Rudhyar, 1895-1985)による「サビアン・シンボル(Sabian Symbols)」を基にした占星術は、この時代に登場した新たな占星術の分枝です。ルディアの代表作とも言うべき『パーソナリティーの占星術(The Astrology of Personality)』(1936)では、占星術のすべては現代の深層心理学の用語のなかで再定義されるべきであると述べられていることからもわかるように、ベイリーやルディアの秘教的占星術は、アラン・レオからはじまった神智学の世界観を背景とした「占星術の心理学化」の流れに位置づけられるものです。
 他にも20世紀前半は、占星術の理論は多様化し、シリル・ファーガン(Cyril Fagan, 1896-1970)の「サイドリアル占星術(sidereal astrology)」、ジョン・アディー(John Addey, 1920-1982)の「ハーモニック占星術(Harmonic Astrology)」、アルフレッド・ヴィッテ(Alfred Witte, 1878-1941)の「ウラニアン占星術(Uranian Astrology)」など、今日にまで続くさまざまなスクールが生まれています。

 1970年代になると、占星術は「ニューエイジ・ムーヴメント」の洗礼を受け、「自己成長」や「自己探求」のツールと定義し直され、出来事を予知するものとしての占星術本来の側面はかなり薄まっていきます。また、かつての占星術の複雑な技法もシンプルなものへと切り詰められ、手軽で安価な占星術の「ハウ・ツー」的なイージ・ガイドも多く出版されます。それによって、占星術に単に関心を示すだけでなく、実際に自分で占星術を学んでみようと思う人が、かつてないほど増えていきました。
 20世紀における人々の占星術への関心は途切れることなく続いてきました。そしてそれは今日にまで至っています。
 21世紀のこれからも、たとえその形が変化していったとしても、おそらく最もポピュラーな占いとしての地位は揺らぐことなく保ち続けていくのではないかと思われます。

 占星術の歴史を記述した文献は、占星術師によるものからアカデミックなものまで、さまざまなものがあります。
 日本語のもので読みやすく非常に素晴らしい内容のものとして、占星術の誕生から中世までの占星術の歴史が書かれている矢島文夫著『占星術の起源』(ちくま学芸文庫、2000年)があります。また、中山茂著『西洋占星術 科学と魔術のあいだ』(講談社新書、1992年)も一般向けにわかりやすく書かれていて、占星術の歴史にまつわるさまざまなエピソードを知ることができます。
 専門的であるため占星術の知識がないと読みづらいですが、バビロニアからルネサンス期までの占星術理論の発展の跡を辿った通史としては、S・J・テスター著、山本啓二訳『西洋占星術の歴史』(恒星社厚生閣、1997年)。
 英語の文献として一冊あげるなら、読み物としても面白いBenson Bobrick, The Fated Sky: Astrology in History, Simon & Schuster, 2005がお勧めです。

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